それしきのこと

個人的な約束ではない。
金銭のやり取りが発生するビジネスの話である。
規模はどうあれ商談である。

それでも約束をすっぽかされることがある。

相手にとって「取るに足らない取引先」と判断されての事かもしれないが、あれほどしつこく「忘れないでね」「大事な予定としてメモしておくから大丈夫」というやり取りをした前日のことを思い出すと、いまだに少々がっくりする。
しかしこのような事態はあくまでも「想定内」のことなので、わずか5分という時間ではあるが、その間で相手が姿を現さない場合は「待つだけ無駄」と即座に判断し、いつまでも尾を引いたりなどせず気持ちを切り替えて、次の行動に移ることを心掛けている。

なぜなら今までの経験上、たいていの場合が最低でも30分、平均で1時間から1時間半、最長で5時間、まだかまだかと相手を待たなければいけないことがほとんどだったからである。

これはプライベートな約束での経験も織り交ぜてのことだが、私がやり取りするような相手先のほとんどが、プライベートだのビジネスだのと器用にラインを引いて行動するようなタイプの人間ではないので、「いつまで待つことになるかわからない」といった私にとって不幸な状況が、極めて高い確率で発生することになるのだ。

こういったケースの場合、皆一様に「今すぐ行くから」「近くまで来ている」というお決まりの言い訳をし、周囲の人間も「あとチョットで来るから心配するな。ここで待て」と、何の根拠もなく、苛立つ私をなだめるのである。訪問者がたとえすでに30分待っていようが、それからさらに一時間待つことになろうが、ようやく現れた主は笑顔で「元気?」の挨拶である。

慌てたり急いだりしたところで人生「なんだというのだ?」と、熱を帯びてムンとした風の吹くアジアの中にいると、そう思う。そう思うのだが、なかなか「待ち上手」にはなれず、常にイライラしてしまう私である。

さて。

前日あれだけ固い約束を交わしたというのに「他の仕事場」へ出向いてしまった待ち人。
いわゆるアポイントメントなど「あってないようなもの」であるなら奇襲攻撃である。
「ストレスなく相手を捕まえる」という意味でも「自分の時間を有効的に使う」という意味でも、断然この手段を用いた方が確実である。相手があまりにも神出鬼没で多忙であるといった場合は、何度も何度もトライしなければいけないという難点はあるが―――。

翌日のこの日、私は「自分の都合のいい時間」いわゆる「ヒマになったとき」を狙って相手の店に押しかけた。

いた。

こちらをチラリと見るオッサン。
その表情は、昨日のことなどまるで頭をかすめていないといった感じにフレンドリーである。媚ではない。
ひょっとしたらそれは「あるべき人間の姿」であるのかもしれない。

なんてちっとも思っちゃいないけど、私もそうそう「何も知らない小娘」ではないので、開口一番「昨日の約束すっぽかすなんてどういうこと?!」などと可愛らしいことを言ったりするつもりはない。

まずは何事もなかったかのように「元気?」とにこやかに挨拶である。
妹にも「挨拶は大事」と常々言われている。
すると「今日はどうしたの?」と、オッサン。

しばしの見つめ合い。

「どうしたのじゃねー!! 昨日はどうした!!」

わずか一分も経たない間にこのザマである。

「あ、昨日ね。約束の時間にいたんだけど」「いなかったでしょ?!! なんでそんな嘘つくのよ」「嘘じゃないって、居たって」「ここにじゃないでしょ! 他の仕事場に行ってたんでしょ!!」

「えへへ」と、オッサン。
「うふふ」と、私。

「だって今度新しい工場を作るから。それで忙しいのよ」「もういいよ」「でもちゃんと名前は覚えたよ。(あんたの名前)●●でしょ?」「(一年以上かかってやっと覚える気になったよ、このオッサン)それ、昨日私がメモ書き残して署名したからでしょ?」

「えへへ」と、オッサン。
すっかり笑みの消えた私。

名前を覚えることも「人とのお付き合い」上の基本的マナーだが(そう書いておきながら実は私もすごく苦手である)、下準備やその後の予定が絡んでの約束事はなるべく「記憶の彼方」へ押しやらぬよう努力して頂きたい。「すっぽかす」などもってのほかである。

だがしかし、自分は今そのような日常に身を置いているのであるということを、一番忘れてはいけないのであった。傲慢にあるべからず。