未知なる世界(前半

いよいよ「この時がきたか」と覚悟したことが同時に起こった。

ひとつは、一ヶ月間のインドネシアVisaの有効期限切れに伴う出国の際「金銭的な事情により利用することが決定してしまったエアアジアのチケット予約」。

そしてもうひとつは「謎に包まれた通信会社からの勧誘」である。

とあるバリニーズの友人が、一年ほど前から「本職」とは別の仕事、いわゆる「副業」に並々ならぬ情熱を注ぎ始めた。
彼はウブドで生まれ育ち、本職もウブドにある「地元密着型人間」である。
しかしその副業を始めてからというもの、バイクで片道40分以上はかかるデンパサールまで週3日〜4日という密なるペースで通い始めたのだ。
それは、夕方5時に仕事を終えて「ほぼ直行」といった忙しなさで、携帯電話の通話料金が給与範囲内で払いきれないために始めた副業であるにもかかわらず、一週間に捻出するガソリン代もばかにならない「さらなる苦境」に立たされるという混乱を招いている。
私にはワケのわからない金と時間と労力の使い方である。

当初、彼の家に遊びに行ったりすると5割の確率で「自宅セミナー」が行われていた。
部屋の一室で「リーダー」と呼ばれる人が「その仕事に関心を持った人間」を前にして会社のシステムを説明し、「君たちもこの仕事で一儲けしてみないか?」などと勧誘するのである。

参加者はその界隈に住む若者がほとんどで、人数も毎回5〜6人程度と少人数制度を採用。主催会社から派遣されて出向いて来ているというリーダーが、参加者一人一人の質問や疑問に丁寧に時間をかけて答える。しっかり目が行き届く範囲でもある。囲い込み体勢万全だ。

私はまったく興味のないことだったので、「自分が今とても入れ込んでいる副業」について熱心に話す友人の話をほぼ90パーセント受け流して聞いていたので、今もってどういう仕事であるかきちんと理解していない。

ただ、その会社は国際電話の格安通話料を提供するという外資系の会社で、儲けの仕組みが「ねずみ講」のような図式で描かれたパンフレットを見て「胡散臭い」と感じたのを覚えている。

私は彼のことが心配になって「この会社ほんとうに大丈夫? 実在する会社なの? きちんと報酬貰えてるの?」と矢継ぎ早に質問した。
しかしその時の彼の答えは「自分はまだセミナーに参加しているだけの研修生だから報酬は貰っていない」との事だった。

そんなある日、私は彼に「いろんな国のスーパーマーケットを見て歩くのが好きだ」と言ったことがあった。
すると彼は即座に「デンパサールに大きなスーパーマーケットがあって楽しいよ」と言う。もちろん私はすぐさま「そこに行ってみたい!」と同調した。
彼はいつになく快活に「いいよ! それなら早速あしたにでも行こう」と答え、明日の夕方6時に迎えに来ると具体的な日時まで述べた。

私はその「明日」がやって来るのを子供のようにわくわくしながら待った。
そしてその瞬間がやって来て、私の部屋のドアをノックして、外で待つ彼を見て驚いた。

スーツ着用で立っていたのだ。

大きな銀行の窓口でしか見たことのないような堅苦しさ。
異様なオーラが彼を取り巻いていた。
すぐに「罠」だと直感した。
同時に扉を乱暴に閉める自分がいた。

外から「どうしましたか?」と言う、いつも丁寧な彼の問い掛けがあった。
その口ぶりさえも不気味に感じた。
「そっちがどうしたのよ。一体どこへ連れて行くつもり?」と、わずか1cmほどだけ開け放たれたドアの隙間から警戒心丸出しで訊ねる。

「デンパサールだよ」
「スーパーマーケットにスーツで行くわけ?」
彼のちょっと困った顔。
そして明かされた真実。
「一緒にセミナーに行こうと思って」

やっぱり。

「うそつき! 私はそんな怪しいセミナーになんか行きません!!」
「嘘じゃないよ。スーパーマーケットにはセミナーに行く途中に寄れるよ。それにこの間も外国人が参加したんだけど“とても素晴らしかった! ありがとう”って大感激してたんだよ」
「それは良かったねぇ。でも私は参加したくないの。一人で行って下さい」
問答無用で追い返した。

その後も彼とはこれまでと変わりない付き合いが続いている。
賛同できない世界に引きずり込まれるのはごめんだが、人が何に興味を持とうと個人の自由である。彼が大きな損失さえ受けなければ好きにやってくれて大いに結構。幸いまだ「騙された」とか「大損した」などといったことは耳にしていないので安心である。

それにどちらかというと「本職」と「副業」のWワークを持ってまでも「今の収入では生活が成り立たない」などと嘆く彼自身に問題があるのではないか? とさえ思えてくる。

常に多忙である彼なので、今回バリ島へ来てからも積極的に声を掛けることはしなかった。彼の方も、私がやって来ていることは周知の通りで知っていたと思うので、それはお互い様といった感じだったのだが、二週間ほど過ぎようとしたこの日、突然この彼から電話が掛かってきた。

「今から部屋に行ってもいい?」と聞く。
私はあまりにも突然のことだったので「まだ三時だよ。仕事中じゃないの?」と訊ねた。
「大丈夫」だと言う。そっちは大丈夫かもしれないけど、こっちはそれほど大丈夫でもない。だって「久しぶり」の前置きもなく、いきなり「部屋に行ってもいい?」である。これではまるで「お付き合い」している間柄みたいではないか。

「どうしたの?」と、なるべく優しい口調で訊ねると「話したいことがある」などと意味深なことを言う。「そんな話は聞きたくない」と、そう言ってしまえたらどれだけ楽であっただろう。しかしこれまで彼にはいろいろとお世話になり、助けられたことも多々ある。むげに断れないではないか。

私は「いいよ」と承諾して電話を切った。
勧誘だ。また例のアレ。セミナーに誘われちゃうんでしょ、私。今度はアタッシュケースとか持って来られちゃったらどうしよう。話術も巧みになってたりなんかしてね。それより「やっぱりその会社に騙されてた」とかっていう話とか? そんでもって多額の借金背負うことになっちゃったとかって言って厄介な「金銭」の話になったりなんかしたらどうするよ。

頭の中であれこれと不吉なショートストーリーが展開される中、彼はやって来た。
「どうぞ」と部屋の中へ招く。
自分の優位を考えたならば、「勧誘行為」は部屋の外で行わせるべきかもしれない。
しかし彼は長い付き合いにある友人である。そのようなあからさまな他人行儀的扱いは出来ない。

緊張していたので私は幾分「言葉数」が多くなり、逆に友人はそれが少ないばかりかモジモジし始めてしまい、なかなか本題に入ろうとしない。
仕方なく私から口火を切った。

「何か大事な話があるんでしょ? 一体どうしたの?」
すると彼は、大きく潤んだ瞳で私をじっと見つめ返し、か細い声でこう言った。

デジタルカメラ、貸してください」

なんだ。そんなことか。
そんなことはアレだ。電話口で言ってくれれば済むことだろう。
なぜわざわざ部屋まで出向いた。

緊張の糸は一気にほぐれ、私はデジタルカメラを貸すことを快諾したが、そのことで翌日散々彼に振り回されることとなった。

後半へつづく