保身
本当だったら二日前に、縫製者さんに足りない素材を即行で届けるはずだったのが、勝手に「雨天決行」で素材を宅配することを中止し、今朝、まだ雨が降らないのを見計らって急いで約束のブツを届けに行った。
のどかな田園風景が広がる中、縫製者さんの個人宅に向かっている途中、どこからか「きゃい〜ん、きゃい〜ん」と、あの独特の、困った風な、甘えた風な、一般的な女性なら、ちょっとそそられるような、甘く切ない鳴き声が聞こえてきた。
私はバイクの速度を少し緩めて、聴覚を集中させ、声の主を探した。
いたっ!!!
道路脇の深さ30cmあまりの側溝に、ビショヌレになった子犬を発見。どうやら落下したらしい。
側溝も側溝で、子犬が自力で這い出せない絶妙な高さになっていて、じたばたじたばたと子犬なりに頑張ってみるのだが、あと一歩のところでまた側溝に逆戻りしてしまう。
私はバイクからすぐさま降り、子犬にかけ寄って「救世主」となるはずだったのだが、周りにいた成犬どもが「ギャインギャイン!!」と、子犬に近寄る私に対して、まるで犬さらいかのごとく扱いで吠え立てるので、進んだ足が一歩下がってしまった。
しかし、いくら成犬が私の行いを誤解しようとも、それは子犬には関係ない。助けてくれと、「きゃい〜ん、きゃい〜ん」と懇願する小さき命を、どうしたら見捨てることができよう。
私は再び子犬に近寄り「もう大丈夫だからねぇ〜」と、なるべく善良そうな顔つきを装い、子犬の体に手を触れようとした。
するとこの子犬でさえも、生意気に歯を剥き出しにし、グルルルルルルルルと唸り声を出し、しまいには「ギャインギャイン!!」と吠え立て始めたのである。
「触んじゃねーよ!!」
そのいっぱしの凶暴顔は、そう言ってるようであった。
それでは私も言わせてもらおう。
君の第一印象は「きったねー」である。このシチュエーションでこのような表現はいかがなものかと思ったが、「汚い」ではなく「きったねー」なのだ。その汚れっぷりが。
まぁ、当然だな。二日間降り続いた雨の後の側溝に落ちたのだから。
そんな君をだね、私はそこから救いだそうというのだよ。そんなことしたら私の手は泥まみれだよ。これから大事な仕事の素材を手渡ししなきゃいけないってのに、泥まみれってどうよ。途中の汚い川で手を洗うしか手段はないんだよ。
それをだね、君。まるで悪人扱いするかのごとく威嚇するってのは間違ってるだろう。だからほら、そんな本気で噛み付こうとするんじゃない!! 私は本来ものすごい小心者なんだから、吠えられるだけでもすっごいびびってるわけよ。それなのに噛み付いてやろうという動作までされたら、すっかり怖気づいてしまうじゃないかっ!! だいたい君らみたいな基本的に「野良犬のようなライフスタイル」で、予防接種など生まれてこのかたしたことのないような犬にはね、狂犬病ってウイルスが・・・・・・。
狂・犬・病。
そういえば、バリ島に来る直前に、バリ島の犬に噛まれて狂犬病に感染した人が死亡したってニュースを読んだことを思い出した。しかも狂犬病は「発症するとほぼ100パーセントの確立で死亡」ってあったなぁ・・・・・・。
怖っ!!!
私のような動きのニブイ人間では、たとえ相手が子犬であったとしても、まんまと噛みつかれる恐れがある。そして子犬には狂犬病ウイルスがあるのかどうかの知識さえもない。
非常に危険である。
ここで命を危険にさらすわけにはいかない。さらば子犬よ。
私はバイクに戻りかけたが、子犬は私が立ち去ろうとすると、やはり「きゃい〜ん、きゃい〜ん」と切なく鳴くのである。
別に私に助けを求めているわけではないとわかっていても、やはり再び戻ってしまう。しかし手を差し伸べると噛みつこうと躍起になる。
どうしよぉ〜〜〜。
決めた。
前方からやって来るバイクの前に立ちはだかり「トロンサヤ〜(助けて〜)」と、呼び掛ける。
現地のおじさんがバイクを止めたので、私は知りうる限りの数少ないインドネシア語単語とジェスチャーを交え「子犬があそこから出ることができません」と説明すると、おじさんは子犬に近寄り、やはり噛み付こうと歯を剥き出しにして吠え立てる子犬をものともせず、前足の片方を乱暴にガッと掴み、そのまま子犬を地面に軽く投げ置いた。
子犬だろうが、扱い粗末だな。
そうして通りすがりの真の救世主は、「これでいい?」って顔をして、バイクにまたがり立ち去った。
ありがとう、現地の方よ。いつも保身のために迷惑ばかりかけてすみません。またどこかでお世話になることがあるかもしれませんが、そのときは宜しくお願いします。
びしょびしょに濡れたこ汚い子犬は疲れきってしまったようで、そのまま横になって眠ってしまい、その姿はのどかな田園風景にすっかり溶け込んでしまったのだった。