バイクトラブル

「パンッ!」と弾ける音を聞いていた。

それはとても小さく、微かな記憶であったので、それが昨日のことであったのか、はたまた一昨日の、もしくはその時間をさらにさかのぼっての出来事でっあったのか、定かではない。

ただ、ここ数日バイクを運転していると「シュン、シュン、シュン」という妙な音とニブイ感触が足元を伝ってきていたので「このバイクもそろそろ限界かなぁ」などと、後に知ることになるが、まだ2〜3年程度しか使われていないバイクに対してそのように失礼なことを思っていた。

しかし私は「幸か不幸か」気付いてしまったのである。

それは、お店を閉めて家路に着こうとしたそのときであった。
なぜだかその日に限って、いつもはまったく気にとめない後輪のタイヤに目線が走った。
地面に接している部分のタイヤが、力なく弛んでいるのが目にとまった。
相当お疲れのご様子。

ではなく、「完全にパンクしてんじゃん!」で、あった。

あーあ、なぜ今このタイミングで気付いてしまったのだ。

パンクしているとわかっているバイクになど恐ろしくて乗れないし、このガタイを宿まで引いて帰る体力など、むろん私にあるはずなどない。

その場ですぐに、バイクの本来の持ち主に電話を入れる。

こういう時に限って、やはり「こういう時に限って」というお決まりのシュチュエーションが重なって、虚しくコール音が響くばかりで、私の理不尽な怒りは頂点に達しようとしていた。

「緊急事態なのになぜ出ない!? まさかこんな時に、呑気にサッカーなんてしてるんじゃないでしょうねぇ!!」

「ハロー?」
出たっ!!!

「ちょっと! バイクがプロブレムなんだけどっ!! 今どこにいるの?!!!」
「アーーー・・・。ワヤン、ティダッ アダ(ワヤンならいないよ)」
持ち主ではなく、パパが出てしまった。

ま、さ、か。

「今フットボールをしに出掛けているので携帯は家に置いて行った」と、パパはそのように、興奮冷めやらぬ私にインドネシア語で説明した。

私と同じで母国語以外の言語を操ることが出来ないパパの登場に、私はほとほと困り果てていた。

できればワヤンの奥さんと電話を代わって欲しかったのだが、「バイクがパンクして困っている」と伝えたところで「あはははは」と笑っているような人に何を言っても緊急対応などしてくれないであろうとすでに諦めの境地にあったので、「ワヤンが戻ったらすぐに電話するように」と伝えて電話を切った。

さて。
残されたのは、パンクしたバイクと私のみ。
非常に心細いメンツである。

私は決断した。

これに乗って帰ろう。

今までだってパンク状態で運転していたのだ。
ただそれを「知らなかった」だけ。
そして今は、それを「知ってしまった」だけ。
状況の変化はそこ一点だけだ。
言い換えれば「そこ」が気持ち的に一番重要だったりもするんだけどね。

最初こそ時速20km程度でちんたらちんたらと走っていた私だが、途中、ちょっとした「招かれざるバイクに乗った知人」と遭遇してしまい、挙句、不運にもストーカーのように追い回された為、不本意ながら幾台かの車とバイクを抜き去って走ることとなってしまった。

そうしてなんとか無事に宿へ辿り着いた私だったが、ようやく部屋に戻って一息ついたばかりのところで「5分以内にフロントまで来るように」と持ち主のワヤンに呼び出され、当然のごとながらその場でバイクは没収。

しかも「今は修理屋さんが閉まっている時間だから、バイクを戻すのは明日の午前中」と告げられる。とほほ。

バイクは翌日、思ったより早いタイミングで私の手元に戻された。

「ありがとう」と、バイクのキーを受け取り持ち主と別れたその日の午後、長々と降り続いた雨もひと段落したところで「さてと。出掛けますか」とエンジンをかけようとしたところでウンともスンともいわない。

バイクは押し黙ったままである。

私の操作にミスがあるのかもしれない。

試しに宿のスタッフとオーナーのデワさんにエンジンをかけてもらった。

二人の時もやはりシーンと静まり返るばかりのバイクなのであった。

すると、「バッテリーがあがっちゃってる」と、デワさん。
かといって修理工場へ一緒に行ってくれるわけでもなく、不吉なことを言うだけ言ってどこかへと立ち去ってしまった。

私は「いつもの回線」が切れる思いを必死に堪えながらワヤンに電話を掛けた。

しかし、出ないのである。
この電話嫌いの私が、何度も何度も積極的に電話をしているというのに、この情熱が相手には伝わらないようで、一向に出る気配がない。

なぜ?

なぜゆえに緊急事態のときばかり繋がらない?

ひょっとして、電波を通じて怨念までも相手に伝わってしまったとか?
だったら反応がないのも納得だ。

思えば、今まで何人かのバイクレンタル屋さんとお付き合いのあった私だが、ワヤンほど「私と彼の腐れ縁」に甘んじた「けしからんビジネススタイル」を貫いている人間はいない。

他のレンタル屋さんは、まず、初日のバイク受け渡しの時など、最低限でもガソリンは半分、もしくは満タンにした状態にしてあるが、このワヤンは「一番近くのガソリンスタンドに行けるか否か」という非情に切羽詰った状態のバイクで颯爽と登場する。

さらに、一ヶ月間単位のレンタルとなると、やはりメンテナンスのケアも「レンタル屋さんとしての資質」を見極める際の重要なポイントになってくる。

それに対し「他のレンタル屋さん」は、一ヶ月に一度、修理工場までバイクを運んで点検をしてくれるというのに、去年、私が半年間もレンタルをお願いした「ワヤンさん」は、「バイクの調子が悪い」との私の訴えに対してかろうじて一度、メンテナンスに応じたのみである。

ちなみにこのワヤン。車のドライバーもやっているのだが、どんなに暑かろうがエアコンをかけない。お客さんとして高いお金をしっかり払っているにもかかわらずである。
「エアコンかけてよ!」と言うなり、「ガソリンが全然ないからエアコンかけたら危ない!」である。だったら入れろよ。ガソリン代だって支払いに加算されてるんだからさ。

からしてみたら「納得のいかないケチ」なのである。

そういうマイナス面をアレコレ考えると、どうしようもなく怒りばかりが増幅して、コール数もストーカー並みに激しくなる。

しかし、やはり出ない。

携帯へショートメッセージを送る。
『バイクの調子が悪いです。本日中に修理が無理ならあなたのバイクは二度と借りません』

で、せっかちな私は直後、再び電話を掛ける。
すると、どうしたことか、今まで何度電話しても出なかった相手がわずか2コールで出た。

「どうしたの?」と、ワヤン。
「どうしたの? じゃないよ。どうしてバイクのエンジンかからないの?」
「エンジンかからないの?」
「何度も試したけどできません」

「今からそっちに行くからチョット待って」と言って電話を切ったワヤンは、それから15分ほどして私の滞在するバンガローに到着した。

なんというのだろうか。
そのときイヤ〜な直感が私の頭をかすめた。
ひょっとすると・・・。

キーを差し込んでエンジンをかけるワヤンに応えるようにして、バイクがブルルと音を立てて振るえた。

やっぱり動いちゃったよ。

振り向きざまのワヤンの勝ち誇った顔を、私は決して忘れない。
そして「どうして動く?」と言い放ったトドメのセリフも。

それよりなにより、いくら不調がたて続いたといえど「原因はわからないけど私が挑戦したときには動かなかったの。わざわざ呼び出しちゃってごめんね」と素直に言うことが出来ず、「そんなの知らないよ。だいたい一ヶ月以上もメンテナンスしないなんてひどいんじゃない?」と言ってしまった自分に、深い自己嫌悪を感じたバイクでの一件であった。