捨てる者、拾う者

世界のアルピニスト野口健氏。
最近では「清掃登山」の活動家としても有名である。

氏は現在、ここ数年恒例となっている「ヒマラヤ清掃登山」を決行中だ。
登山家の憧れの地であるはずの山々は、そこを訪れる人間のモラルの欠如によるゴミの投棄で、環境破壊の被害を受けるといったお粗末な状況にある。

日本が誇る景観のひとつである「富士山」も、膨大なゴミの不法投棄が理由で「世界遺産登録」という夢を未だ実現できずにいる。
ちなみに氏は、この富士山に関しても清掃活動を行っている。

これらの現状は明らかに「モラルの低下」によるものが原因だが、元々の考え方、いわゆる「文化の違い」が原因の「公然なるポイ捨て」というものもある。

たとえば、バリ島。

バリの人々は、道端で、そして車内から、平気でその辺にゴミを投げ捨てる。タバコも火が点いたまま草陰にポイッと投げる。宴会後のビール瓶やスナック菓子の袋も道に散乱させたまま解散だ。たまに人間が横たわったまま置き去りにされていることもある。

あまりにポイぽいポイポイ躊躇なく投げ捨てるので「それ、良くないよ」と注意すると、大半のバリニーズは平然とこう答える。

「ダイジョーブ、ダイジョーブ。あとで誰かが掃除するから」

確かに、散らかされたゴミの類は誰かの手によって片付けられているし、制服を着た子供たちが学校の一環で行われているのか、ホウキを手にして外の掃き掃除をしている姿も目にする。

「後で誰かが掃除や片づけをするからポイ捨てなんて問題なし」

物質的な面で言えば、確かに差し引き0ではある。

だがしかし。

「ポイ捨て」という行為自体を道徳的観念から見た場合、それは決して「他人によるその後の処理によって帳消し」という運びにはならない悪しきことである。

結果論だけを見てしまえば「なんてことはない行為」で済まされると誤解してしまうかもしれないが、小さな見過ごしと油断が、取り返しのつかない深刻な問題へと発展していく恐れもある。

そしてそのツケは必ず、私たちや、その先の未来へと回ってくるのである。