未知なる世界(後半

人間いつまでも浮かれてばかりいられないことくらい承知である。
しかし、久々に仕事上の件で気分を良くしているその日に、なにも暗い影を落とすような厄介事が舞い込む必要もないではないか。

「浮かれたこと」とは、素晴らしいガムランボールと出会えたこと。
「厄介事」とは、デジカメを貸した“その後”と、とある人物からの切なる家計事情に対する訴えごとである。どちらも私にとっては「知ったこっちゃない」なのだが、相手は人の都合などお構いなしで私に無関係な事情を押し付けてくるのである。
これは「昨日の出来事」の続きである。
そして、切迫した家計事情を持つ友人に関してはプライバシー保護のために名前は伏せることとする。と、お断りをしたこと自体で誰だかバレてしまった恐れもあるが、それは私の故意によるものではない。

ガムランボールを捜し終え、その日の仕事を終えたのが夕方6時。
私はシャワーで、その日の汗と疲れを流すことにした。
一時間たっぷりかけてのバスタイム。身も心もすっかりリフレッシュである。
夜の七時からは、ここのところ立て続いていたセレモニーで忙しかった宿のオーナー・デワさんと、おしゃべりがメインのセキュリティータイムである。
ただ暗闇の屋外で、二人座って何を見張るわけでもなくボーっと過ごすだけなのだが、この時間は私の大事なリラックス&一方的な愚痴告白タイムでもある。

そろそろセキュリティー小屋に出勤しようかと準備を始めた時、その不吉な訪問者はやって来た。
部屋の外から声がする。

「スミマセーン」

うわぁ。
なんかややこしいのが来ちゃったよ。
一瞬躊躇したものの、部屋の前まで来られてしまったら完全無視を決め込むわけにもいかない。扉を開けて「こんばんは」と挨拶をした。

明らかに「フットボールでひと運動した後に立ち寄りました」という格好だった。
結婚してから「すっかりお腹が出てきてしまった」ことを気にする余裕が出てきた彼は、最近フットボールを始めたと言っていた。どうやら嘘ではなかったらしい。実際、お腹も少しずつ凹んできている。

「どうしたの?」と、相手は確かにそう私に訊ねた。
一体どういうことだ?
どうかしちゃったのはそっちの方だろう。

「私は別に問題ないけど、そっちこそこんな時間にどうしたの?」と、切り返した。
本当は聞くまでもなく私にはわかっていた。
用もないのにこの男がわざわざバンガローの敷地内奥にある私の部屋までやってくる理由はただのひとつである。

借金の申し出。

「だからぁー、私、バンクに二ヶ月Not Payだからぁ」
口火を切った。いよいよ始まったぞ。
どうやら「銀行から借りているお金をこの二ヶ月の間いっさい返済出来ていない」と、そう伝えたいらしい。冒頭の「だからぁー」というのはどれを指しているかは謎だ。恐らくただの口癖であろう。

もうそこから先は「混乱の中のイングリッシュトーク」といった風で、とにかく私に突っ込む間を与えることなく、私にはまったく関係のない「己の金銭事情」を延々と話し出す。

正直、もうこの手の話にはウンザリである。
毎回訴えることは同じ。

自分の所有している観光客用のレンタル用バイクは銀行から借金をして購入したものである→そのため銀行には月々決まった金額のローンを返さないといけない→それを怠るとバイクを没収されるうえに今まで返済してきたお金は払い損となってしまう→そんなことになったら妻が泣く→金のかかる子供を養うことが出来なくなる→自分の家庭は崩壊の危機を迎えることになる→なんとしてもお金を工面しなければいけない→「あ! そういえば今ちょうどあの日本人が来てるじゃん。幾ら借りても利子だってつかないしこれくらいのお金持ってるだろうから借りればいいよ。ラッキー」

そんな感じの流れで私に辿り着いたのである。
お手軽過ぎてイラつくことこのうえない。

ここ一年、この「お金を貸して」は、私がバリ島に来るたびに「毎度のこと」となっている。
すっかりあてにしてるわけだ。私のお金を。
聞き飽きたのでまったく話を聞かず、宙に視線を泳がせる私に「どうしたの?」と、ようやく「あるべき間」が与えられた。

「どうしたのじゃないよ」私のこの一言に、とっさに身構える彼。
今度は私の番である。

「言いたくないけど言わせてもらうね。数日前に初めて聞かされたんだけど、この間私の妹がバリに来たときもお金借りたんだってね。しかも結構な大金じゃない。私驚いちゃったよ。それすら一銭も返してないのに、またお金貸してってどういうこと? お金返す気、本気であるの?」

これでトドメを刺しちゃったのも同然くらいのパンチだったはずである。
「自己都合最優先」の際は、相手に一切しゃべる間を与えない彼のトーク戦略がピタリと止まった。視線を下に落とし、頭では次の有効な一手を懸命に考えているのが伺える。

どっからでもかかってらっしゃい。

すると「お金はいつ返してくれても構わない」と、そう妹が言ったからと言い訳を始めた。
それは、約束した返済期日どころか、彼女が帰国を迎えてもあなたにお金を返せるあてがまったくなかったために、心優しい妹は仕方なく「私が今度バリ島へ来るまでに返してくれればいい」と言ったのだ。
必死なのはわかるが、相手の親切心をまったく汲み取らない言い分だけを主張するのは、私は好きではない。

それに、人の善意に寄りかかってばかりで自分自身は最大限の努力をしていないではないか。私はこの点が一番納得いかないのだ。

「どんなに頑張ってもどうすることもできなかった結果」ならばわかる。理解して受け入れたいと思う。友人として。

このような不毛なやり取りは「言っても無駄だろう」とわかっているだけに繰り返したくないし、これはあくまでも私の個人的な考えと意見であるので、それを押し付けるのもどうかと思うが、「気は進まないけど奥さん泣かせるのは私も嫌だから」という理由で私もお力になれるよう良案を考えたいと思うのであえて言わせてもらった。

「自分の息子に一日いくらスナック買ってあげてるんだっけ?」
この投げ掛けの返答に繋がる会話をまったく予測していないらしく、彼は平然とこう答えた。
「2万ルピア」
私は深いため息をついた。

バリ島では、小さな子供は特に「神様の子」として大事に育てられているということは知っている。私から見たらそれはただ単に甘やかし行為のなにものでもないのだが。
それが「家を継ぐ」とされている男児であれば尚更である。

「一日2万ルピアのお金を使ったら一ヶ月に幾らになる?」
そこでようやくハッとしたらしい。
おい。この手の説教は今日が初めてじゃなかったはずだぞ。

「そのスナック代、たとえ5000ルピアまで削ったとしても二歳児が一日使うお金にしたら多いよね? そこをセーブ出来たら毎月の銀行への返済もきちんと返せるんじゃないの? まずは自分がやるべきことをしないで、人から簡単に借金するやり方は考え直した方がいいんじゃないの?」

そんな私の冷静でいて客観的な意見を「だって、お菓子買ってあげないと子供が泣くから」と、非常に幼稚な言い訳で塗り潰す。

彼の家に行くたびに息子のためにお菓子を買い与えている彼の姿を思い出した。
わずか二歳の息子は、両手で持ちきれないほどのスナックを握り締め、乾ききっていない涙の跡がついた頬を緩めてにやりと笑うのだ。
それはまるで「してやったり」そんな感じ。ま、子供なんてみんなそんなものか。

さらには、同じ敷地内に住んでいる親戚の子供たち(彼らは親からやすやすとお菓子を買ってもらえない)が「一個チョウダイ」と言っても息子は「やだね!」ときっつい顔で威嚇するだけ。もんすごいケチンボウだ。
そんな光景を思い出し、私の大人気ない闘争心に火がついてしまった。

「そんなもの泣かせとけ! 飯でも食わせろ!!」
「そんなことできない」
「嫁のことは泣かせておいて、子供のワガママは黙認するのか!!」
「だって、息子はボクのことすっごく好きだから」
「(ナメられてるだけだろ)子供のスナックに、一ヶ月分のサラリー代にあたる大金を使える人間にお金なんて貸したくありません。それにまずは、妹から借りたお金を返すのが筋です」

次の言葉はなかった。
すっかり弱り果てている。

私とて彼をしょんぼりさせるだけを目的に厳しいことを言っているわけではない。
言葉を続けた。

「私だって人の家の子育てに口出しなんかしたくないけど、私がバリにいると必ずお金を借りにくるでしょ? しかもいつも突然夜に来て、翌日の午前中までにはお金を用意してとか言ってさ。人の都合をまったく考えてないよね。私、あなたのために銀行へ不必要な両替に行かないといけないんだよ。そういうことを要求する前に、まずは削るべき出費をなんとかするべきじゃない?」

黙って耳を傾ける。
恐らく私の言葉を真摯に聞いているのではなく、「この口うるさい日本人からどうにかしてお金を引き出す手段」を思案していると思われる。
そんなものだとわかりながらも、言葉を続ける自分が虚しい。

「だから私はあなたに無償でお金を渡すことはしません。その代わり、あなたが今必要としている金額を払うので空港までの送り迎えをお願いします」

彼にとっては意外な言葉だったのだろう。
「それ、どういうことっ?!」と、私の提案に飛びついてきた。 

「来月マレーシアに行かなきゃいけないんだけど、その時の空港までのトランスポットをお願いできる?」
「できる! できる!!」
「それじゃ、お願いします。お金は明日の午前中までに用意しておくね」
「ありがとう! あなたとってもいい人!!」有り難がられているのに、なぜだか複雑な心境になる。

「本当にありがとうね!」
「どういたしまして」
交渉成立ってことで、最後は笑顔で握手を交わす。
ウッキウキで家路につく彼の後姿に「ガキ泣かせても嫁さん泣かすなよ」と、言葉を掛けた。

ものすごい疲労感だけが残った。
結局、セキュリティータイムにも間に合わなかった。
がっくり肩を落としている場合ではない。私にはネット屋でやらなければいけないことがある。いざ出陣。

ようやく「誰にも干渉されない時間」がやって来た。
たまに知り合いに会ったりすると、メール中だろうがチョッカイ出されて腹の立つことはあるが、基本的にパソコンに向かっている間は自由である。

するとネットを始めて10分も経たないうちに携帯電話が鳴った。
着信番号は、デジタルカメラを貸した彼の勤めるオフィスを表示していた。

「こんばんは」
「コンバンワ」
「どうしたの?」
「スカラン(今)ドコ?」
「インターネット」
「OH! 会えマスカ?」
「えっ?! 今から?!!」
「ハイ」
「(まだ肝心なメール送ってないよ)急いでるの?」
「ジャムブラパ(何時)ビザ(できる=会える)?」
「今、八時半だから。10 o’clock」
「!!! ダメぇ〜」
自分の用事で呼び出すくせにこれだよ。

「それじゃ、9 o’clock」
「OK! See you!!!」

回線状況が悪くて一通もメールを送れないまま、彼が指定したオフィスに出向いた。

誰もいやしない。

もしやと思い、彼の親戚が経営するシルバーショップを覗くと、そこで呑気にテレビを見ている彼を発見。なんだかなぁ。

「一体なんの用?」言葉もついついきつくなる。
借りたデジカメは仕事上のことで使用したので、本日中にその画像をボスにネットで送りたいとのこと。ボスが滞在している国は時差のためすでに夜10時を回っている。
「もうボスだって仕事なんかしてないから明日にすれば?」「ダッメー」「仕方ないなぁ」

急な呼び出しだったので、宿の部屋にデジカメのコードを取りに戻らなければいけなかった。

デジカメの画像を彼のオフィスのパソコンに転送する。
このまま送るとデータが重いのでフォトショップを使って画像解像度を変更したいと言う。
「その作業に私が立ち会う必要ないだろう」と言ったが「居てください」と言う。

十数点もの画像があるというのに、彼の作業はとてものんびりとしたもので、とてもじゃないが気の短い私が穏やかな気持ちで付き合っていられるようなペースではなかった。
ついに私は横から手を出した。
彼にマウスをクリックさせる間を与えずにキーボードで操作をした。
呆れて苦笑いする彼のことなど意に介さずに、私は目の前に貼り付けられた画像を黙々と処理した。

私の強引な頑張りにより、10時前に画像処理は終了された。
あとはネット回線を繋げて画像を送信するだけである。

しかし、だ。
ネットが繋がらないという。
その方面には私に負けないくらい「疎い」彼。
この面子では手におえない状況に追い込まれてしまった。

それでも自力でなんとかしようと、私でも出来るような範疇のことばかり試みる彼に、「誰かネットに詳しい人とか知らないの?」と聞くと、「知らない」と、泣けてくる言葉が戻ってきた。

今日は十分「面倒なこと」に付き合ってきた私である。
「一体どうしたらいいんだ」と途方に暮れる彼に「だから今日は諦めなよ」という言葉を掛けようと思ったが、「ロムに画像を落としてネット屋からデータを送ったら?」と助言した。

あいにく10時を回ってしまったのでスーパーマーケットは開いていない。
ロムが手元にないというので、「ネット屋だったら置いてあるよ。そこで買ったらいい」と提案し、「ついて来て」というのでトホホと思いながらもバイクに乗った。

果たしてロムは無事購入することが出来たが、XP搭載のパソコンだというのにロム機能が故障しているんだかなんだか、とにかく使用することが出来なかった。

なんてことだ。
なぜここまで追い込まれなければいけない。

それじゃ、アレだ。
フロッピー。フロッピーなら私が持ってるから。
そう言って、「Asian Zakka Moti」Shopまで、ひとりバイクを走らせた。

フロッピーさえ使えなかった。
努力がことごとく「なかったこと」にされる。

ロムが使えなかった時点で、実は私にはひとつの考えが思い浮かんでいた。
どうやらあそこのオフィスのパソコンはポンコツみたいだから、あれを使ってどうこうするより、ネット屋のパソコンですべての作業を行った方が確実かもしれない、と。

しかしそれではきっと、編集作業のやり直しどころか、どんなに解像度を変えたところであれだけの点数である。ネット屋に連れて行かれたら最後、延々と続く画像送信が無事に終わるまでパソコンに座らされ「運命共同体」となることを彼から強制される恐れが高い。
そんなのは絶対に嫌だ!!
とにかく何らかのカタチでデータさえ渡してしまえばいいのだ。

私はついに自分のラックトップを取りに部屋へと戻った。
いろんな場所を行ったり来たりして体力的にも限界に近かった。
それでも歯を食いしばった。もはや「なんのため?」だかわからない状態であったが、とにかく「自分にやれること」に、純粋にがむしゃらだった。

もう一度最初から作業のやり直しだ。
デジカメからパソコンにデータを転送→解像度の変更→画像をフロッピーにコピー。
すべて私の作業。彼は眠くて不機嫌な表情を覗かせタバコを吸うだけ。一切関与せず。

「出来た!!」
きっかり11時。
フロッピーを手渡し、「それじゃ、何かあったら電話して」とだけ言って、その場を足早に立ち去った。

あぁ! これで私は晴れて自由の身である。
万歳!!!

電話が鳴った。
「えっ?! もう不測の事態発生?!!」
と思ったら、別の友達からの電話だった。再び嫌な予感が胸をよぎる。

「スラマッマラン(こんばんは)」
「スラマッマラン。イマ、ドコ?」と始まって、ミーティングするから今すぐホテルに来いと言うだけ言って、電話は切れた。

一方的過ぎる。

ひとまずこの間のお誘いも断っているので、バリに来てから顔合わせの挨拶もしていないことだし、ちょっとだけ顔を出しておくか。

行った先では、ロビーの一角で「すっかりできあがっている野郎共」による宴会が開かれていた。

あぁ、嫌だ。

私は背を向けて立ち去ろうとした。
しかし首根っこをガッチリと捕獲され、無残にも酔っ払いの輪の中に放り投げられたのである。

「日本からのお土産は?」だとか「携帯番号を教えて」だとか、さんざんしつこく絡まれた後、ようやく解放された頃にはすでに12時を回っていた。

部屋へと続くコンクリートの道をとぼとぼ歩いていると、見上げた空には星のひとつも見えない厚い雲が広がるばかりで、私は言いようのない虚しさに包まれた。

私は一体なにをしているのだろうか?

禁句な言葉をつい口にしてしまう、やりきれない夜。