父の微妙な浪費癖

その伏線は最近始まった「日々の散歩」という地味な習慣から張られていた。

最初こそ「今日は何千歩あるいた」だの「一万歩まであとちょっと」だのと無邪気なことを言っていた父であった。

しかし、一週間も経過したときには、今日はどこどこの景色がとても綺麗であれを写真に収めたら最高だったろうになぁ〜だのと、なんだかちょっと雲行きの怪しいものへと変化していったのであった。

純粋な母は、そんな父の言葉に耳を傾け「だったらいつもカメラを持ち歩けばいいじゃない。たくさんカメラあるんだから」「いやぁ、あれを撮るには普通のデジカメじゃダメなんだなぁ」「あら。父さん大きいカメラだって持ってるでしょ?」「母さん、今はやっぱり普通の一眼カメラじゃなくて、一眼デジタルカメラなんだよね」 そんな攻防の末、ついには母は「言ってはいけない日本語」を口にするまで誘導されてしまった。

「だったらそのナントカっていうカメラを買えばいいじゃない」

母は知らない。どんなに安くても一眼デジタルカメラがまだ9万円以上もするシロモノだということを。

父がすかさず「いいの?」と完全にその気になったところで、その場に居合わせた私が口を挟んだ。

今までそんな調子で一体どれだけ高価なカメラを購入してきたというのか? その結果、それらのカメラはどういう扱いを受けることになっているのか? などなど。

父は「ちっ」と舌打ちしたいところをぐっと我慢したような顔で「ほんの冗談に決まってるだろう」と言って、自分の部屋に引きこもってしまった。

しかしそれから数日も経たないうちに、父はSONYの一眼デジタルのパンフを持ち帰り、隅から隅までじっくりと読み耽るありさま。聞けば「母さん、銀行でお金を引き落とすにはどうしたらいいんだ?」だの「通帳はどこ?」だの「暗証番号を教えてくれ」だの母を質問攻めにしたらしい。

お金のことはすべて母に任せきりの父は、通帳もカードも使ったことがない。そのため当然のごとくお金を引き出すことも、振り込むことも、一人きりでは出来ない。このご時世に、ちょっと不憫にも思う。

だが母は、十分なお小遣い以外にも、父が「欲しいものがある」とお金を無心してくるときにはいつだって、父がそれを手に入れられるようにお金を工面してきた。時にそれは、母がコツコツと貯蓄してきたものにまで手をつけることもあったが、母が父の「物欲」を抑制させることはなかった。

そんな母だが、父には決して通帳やカードを持たせることはしない。なぜなら父は、自分の携帯番号を覚えられずに携帯本体に番号シールを貼ってしまったり、カードに暗証番号シールを貼ろうとしたり、個人情報に関してまるで無防備であったからだ。

財布のヒモが緩いどころか、機密情報に対してさえもまるで無頓着という危険なありさま。闇金に手を出したり、無茶な金額の買い物をしたりするような人間ではないのがせめてもの救いである。

父も母も、少しばかりの贅沢や好きなことに、お金や時間をつぎ込む資格を十分持っている。何かを手にしたり、経験したりすることを心から望み、それによって幸せになるというのなら、誰に遠慮することなくそれを実行して欲しいと願う。

しかし父よ。

カメラは棚に飾り、ガラス越しに眺めるべきものなのだろうか? 販売台数が限定だからといって、そのボディーカラーがゴールドでン十万円のカメラって、そんなに価値あるものだろうか? しかもすでに、色違いというだけのシルバーカラーのものまで購入済みだったなんて・・・。 ほんと、そんなにディスプレイカメラばっかり収集しちゃってどうすんのよ。

人の趣味にいちいちケチをつけてしまう見解のちっちゃい私は、父のささやかなる楽しみにも許容の広い態度を見せることができずについつい押さえつけてしまう。

まだまだ庶民は景気の向上を実感できるまでに至っていないというご時世に、「欲しいものは買っちゃえ」みたいな子供心的感覚の成人消費者は市場経済でも大事であろう。

「そういう人もいなくちゃね」と人は言うけれど、家族としては黙ってそれを見過ごすわけにはいかない。

お金に対してちょっとばかし無頓着で、自分の好きなことに純粋な父の人間性は好きだが、無邪気な欲求を全解放してやれない厳しい社会というものが、ぽっかり口を開けて呑み込もうとしている。

そんな風に、父のちょっとした浪費癖すら悲観的に考えてしまうほど「深刻な格差社会」は、もはや他人事とは考えられない現実みを帯びて、そこまで近づいてきている。

私たちは今まさに、そういう社会の中を生きている。